皆様、『ずいずいずっころばし』という童謡をご存知でしょうか。
NHK教育テレビでも流されたりしているので、おそらくご存知の方の方が多いかと存じます。
一方で
「『ずいずいずっころばし』の意味は?」
と聞かれた場合、答えられる方はそうはいらっしゃらないでしょう。
今回は童謡『ずいずいずっころばし』の意味をご紹介したく存じます。
目次
『ずいずいずっころばし』歌詞
まず、『ずいずいずっころばし』の歌詞を覚えていらっしゃらないかたも多いかと存じますので以下に記させていただきます。
ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壺に追われて とっぴんしゃん
抜けたら、どんどこしょ俵のねずみが 米食ってちゅう、
ちゅうちゅうちゅうおっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
行きっこなしよ井戸のまわりで、お茶碗欠いたのだぁれ
いままで何の意識もせずに歌っていた童謡の歌詞をこのように文字に起こしてみると、全く現代口語では全く意味がわかりません。
実は、この『ずいずいずっころばし』、長く歌い継がれている童謡である反面、その意味については諸説あり、まだ確固たる結論は出ていないのが現状なのです。
そこで有力といわれている2説をご紹介いたします。
「お茶壺道中」説
この童謡は江戸時代に行われた「お茶壺道中」という幕府の伝統行事を批判している歌であるという説がございます。
お茶壺道中とは何か?
「お茶壺道中」とお聞きになられて、これまたピンと来ない方が多いかと存じます。
江戸時代、将軍御用達のお茶は「宇治茶」でございました。宇治茶はその名の通り、京都の宇治地域で作られた茶葉です。そして江戸幕府、将軍のいる江戸城があったのは当然江戸、すなわち今日の東京は皇居にあたる場所です。
すなわち毎年4月~5月、お茶の季節になると新茶を京都から江戸(東京)に輸送しなければならなかったのです。お茶壺道中の具体的な行程は以下の通り、
- 宇治から茶葉の生育状況の報告を受ける。
- 採茶使が茶壺ともに江戸を出発する。
- 彼らが宇治に到着する。
- 9日目から、茶道頭立ち会いのもと、茶詰めが行われる。
- 茶詰めが終わったら、茶壷を封印する。
- 封印した茶壷を羽二重(はぶたえ)という光沢のある布で包む。
- さらにそれを帛紗(ふくさ)と呼ばれる茶道用の布で包み保護する。
- それを籠の中の箱に入れ、2人が担ぎ、残りは護衛しながら運ぶ。
- 江戸に着く。
- 将軍満足!
とこのように、将軍の宇治茶への魂の入れ込み様は凄まじかったのです。
したがってお茶壺道中の格式は、当時の行事の中でも群を抜いて高く、お茶壺道中の間は、東海道には庶民はもちろん、大名でさえ出くわしてしまった場合は立ち入ってはいけないという凄まじい伝統行事だったのです。
また、東海道沿いの田畑の耕作は禁じられ、さらにそれだけでなく、街道沿いの住民は道の掃除を強制されました。
さすが、将軍!!
『ずいずいずっころばし』は風刺歌
こんな命令でもお上の命令であることに変わりはございません。平和な江戸時代といえど、逆らえば「斬り捨て御免!」を食らってしまいかねません。
しぶしぶお茶壺道中にお付き合いする民衆は不平を持ちます。皆様も上司や先輩に、よくわからない飲み会の準備を頼まれたときはなかなか断れませんよね?それのもっと強い版です。さらに民衆はその恩恵には授かれない。
そこでこの童謡が作られたという説があるのです。
歌詞の意味(お茶壺道中ver)
この説によって歌詞を解釈すると…
ずいずい ⇒ どんどん
ずっころばし ⇒ どんどんの強調
ごまみそずい ⇒ ゴマ擦りしなきゃ
茶壷に追われて ⇒ お茶壺道中来たわ
トッピンシャン ⇒ 戸をピシャリと閉めろ!
抜けたら ⇒ 通り過ぎたら
どんどこしょ ⇒ もう騒いでおk
俵のねずみが ⇒ 付き添いの役人どもが
米食ってチュウ ⇒ お米奪ってうれしいでチュウ
チュウチ(ry ⇒ うれしいでチュウチ(ry
おっとさんが呼んでも \
⇒両親が呼んでも
おっかさんが呼んでも /行きっこなしよ ⇒ 外に出ちゃいけないぜ!
井戸の周りで ⇒ 昔、罪で井戸に落とされた
お茶碗割ったの誰? ⇒ 茶碗割っただけで落とされた奴もいる!
と、赤字以外はあまり関係ないように思えますが、想像するに
ゴマ擦りについては、恐らく掃除を強制されていたと同時に、役人の為に道中のお土産を置いておくことも暗黙のルールとして強制されていたのではないかと存じます。
そしてそのお土産をもらってうれしそうな役人が、うれしいでチュウチュウチュウ。
そして最後はお茶壺道中に逆らうと、井戸に落とされるということを示しているのではないかと存じます。つまり、「昔、お茶碗を割っただけで井戸に落とされたっつう奴もいたからなぁ。お前達、絶対にお茶壺道中の邪魔はしてはいけないぞ」と子供に恐怖を植え付ける文句だと考えられます。
「性的」歌詞説
「お茶壺道中説」が比較的格式高い説であったのに対し、それに相反する俗な説として、
『ずいずいずっころばし』は「性」について歌った春歌なのではないかという説もございます。
『ずいずいずっころばし』の元ネタは『伊勢物語』?
『ずいずいずっころばし』の元ネタの説がそもそも異なります。この説では『伊勢物語』の「筒井筒(つついづつ)」(二十三段)が元ネタとされているのです。
「筒井筒」(文語)
まずは原文を見ていただきます。後に、現代語訳も記しますので、ご安心ください。
昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ、
筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに女、返し、
くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれかあぐべきなど言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。
『伊勢物語』「筒井筒」
「筒井筒」(口語)
昔、地方をまわって生計をたてていた人の子どもが、井戸のそばに出て遊んでおりましたが、2人とも大人になったので、男も女も互いに恥ずかしがっておりました。しかし、男はこの女をぜひ妻にしたいと思っています。また、女もこの男を夫にしたいと思い続けており、親が他の男と結婚させようとするのですが、それを聞き入れずにおりました。さて、この隣に住む男の所からこのような歌が届きました。
筒井戸の井筒と背比べをした私の背は、もう井筒を越してしまったようだなあ。あなたに会わないでいるうちに。女の、返歌
比べ合っていた私の振り分け髪も、肩を過ぎました。あなた以外の誰のためにこの髪を結い上げましょうか。などと言い交わして、とうとうかねてからの希望の通り結婚したのでした。
と、このように両思いの幼馴染同士が色々あって結婚するお話ですね。
訛り前があった?
『ずいずいずっころばし』は今、歌われているのは随分訛ってしまったあとのもので原型があったとされています。その原型に近いものが…
ついついつっころばし こまいしょつい
茶壷に追われて ドッピンチャン
抜けたら どんどこしょ
俵のねずみが米食ってチュウ チュウチュウチュウ
おっとさんが呼んでも おっかさんが呼んでも
行きっこなしよ
井戸の周りでお茶碗割ったの だれ?
ほとんど変わらないではないか!!どこが春歌なんだ?!
とお思いになられるかもしれませんので、解説をしていきたく存じます。
まず、「ついついつっころばし こまいしょつい」について。「つっころばし」は「つっころび」から派生した言葉であるとされ、「つっころび」はいわゆる遊女ではないそっち系の商売の女性。「こまい」とは精巧に編みこまれた竹細工のことで、土壁の骨組みとして用いられます。そして「こまいしょ」は「こまいしよう」という誘い。つまり、「ねえねえお姉さん、イジりっこして遊ぼうぜぇ」という誘いなんです。下品で、すいません。
次に「茶壷に追われて」について。「つぼ」の原型である「つび」は女性のデリケートゾーンを意味します。壺は古来から性的な意味合いを含む言葉としても用いられてきた信頼の実績があるのです。これは「誘われた女性のほうから男性にのしかかってきた」ということを意味します。
そして「ドッピンチャン」。これは男と女がドタバタしている様を示しております。
さて「抜けたら」。別に当時には現代における「ぬける」とかそういう言い回しはありませんので、そういう意味ではございません。いわゆる「刺したら」という意味です。
「ドンドコショ」。さらに騒ぐんですね。もううるさいくらいなんですね。
「俵のねずみが米食ってチュウ チュウチュウチュウ」。ねずみは当時「女郎」や「遊女」などを示す隠語として用いられました。つまり「ねずみ」はその女性。
そして「米食って」は元は「泡食って」だったのではないかといわれており、「当惑している様」を示しているといわれています。
そしてチュウはよがる声。つまり「その女性は当惑しながらも、よがっている」という意味と捉えることもできるわけです。
「おっとさんが(ry」については、もうそのままの解釈で結構です。2人は楽しみの真っ最中。もう誰が呼んでも相手にはしないわけです。
最後、「井戸の周りでお茶碗割ったの だれ?」。ここで「筒井筒」につながります。彼らのような若き男女の行動の軽率さを憂いているのです。つまり、軽率に行為に及んではいけないよと。
まとめ
結論:綺麗なお姉さんとずいずいずっころばしをすれば、必然的に手を触ることができる!
<<ヒトラーの上陸を防ぐべくイギリスが用いたのは魔術だった>>
<<米ディズニーランドで生まれた子供は生涯パスポートが貰える?>>
最後までお読みくださいましてありがとうございます。