表参道の石灯篭に染み込んだ戦争の跡

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本エントリーでは一部太平洋戦争に関するお話を扱ってございますが、決して戦争でお亡くなりになられた方々を冒涜する意図、戦争を茶化す意図はございません。

エントリーに入らせていただく前に、太平洋戦争でお亡くなりになられた方々が安らかに眠ることができるよう、心よりお祈り申し上げます。

皆様は東京のおしゃれな街と言ったらどこを思い浮かべますか?

多くの方が「原宿」や「表参道」、「代官山」などの山手を思い浮かべるかと存じます。現在、これらの山の手の町は若者ファッションの最先端とも言われております。

今回はそんな山の手の町「表参道」にある石灯篭に関してのお話。

表参道にお行きになられたことのある方なら、表参道交差点にある一対の大きな石灯篭をご覧になられたこともあるかと存じます。

その石灯篭、上の方は比較的白く綺麗なのですが、下の方はどこか黒ずんでいるのです。実はこの黒ずみは「山の手大空襲(やまのて」の戦火によるもの。

特にみずほ銀行側の石灯篭は反対側に比べてひどく黒ずんでおります。なぜならば、

そこで多くの方々が犠牲になり、
ご遺体の血と油が染み込んだから

らしいのです。

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表参道

現在では多くの人気店が立ち並び、1つの町となっている「表参道」。

明治神宮の参道

「参道」と名が付いているのには理由がございます。これは灯篭があることにも大きく関係するのですが、表参道の大通り自体がある神社の参道なのです。

その神社とは今やパワースポットとして大人気の「明治神宮」。明治天皇とその皇后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)を祀る神社ですね。他には本殿の外れにある加藤清正の井戸などでも有名です。

日本古来の神様を祀っているというわけではございませんが、現在は多くの方々がお参りに訪れます。特に初詣の時期は300万人以上が訪れ、最長4時間は並ばなければならない程。

大正時代に整備

明治神宮が創建されたのが1920年(大正9年)。表参道はその前年の1919年に明治神宮の正面参道として当時の東京市によって整備されました。

現在では美しい街路樹の並ぶ通りのイメージがございますが、当初は街路樹はなく、明治神宮が創建されたときに街路樹として201本のケヤキの木が植えられたといいます。

参道でございますので、戦前は他の神社と同じような砂利道でした。現在のようにコンクリートやアスファルトで整備されたのは戦後なのです。

山の手大空襲

さて時は1945年5月25日。10万人以上の方々が犠牲になった下町大空襲からまだ3ヶ月も経たない頃。太平洋戦争が1945年8月15日に終わったと考えると、もう終戦間近であったとも言えます。

そんな日に都心部全域をB-29の爆撃が襲いました。当然表参道も爆撃地に。

炎の川

大量の焼夷弾を投下された表参道。幸い生き残りになられた方によると、その光景はまさに炎の川であったそうです。

街路樹のケヤキの木はすべて燃え、周りの建物も燃え、参道は灼熱の炎に包まれたのです。

当然その場にいらっしゃった方々も無事では済みません。ある方は熱せられた鍋にいるような感覚で、どこに逃げても熱くて仕方が無かったと…。

安田銀行

現在、みずほ銀行がある場所には空襲当時、安田銀行がございました。銀行の入り口は空襲時の非難場所のようになっており多くの方々が避難したのです。

以下の画像は、みなとみらいの馬車道通りにある東京藝術大学映像研究科の建物です。この建物は元々、「安田銀行 横浜支店」の物であり、表参道にあった「安田銀行 青山支店」も同じような外観であったそうです。

確かに焼夷弾に直接当たることは避けられたかもしれません。しかしあまりの大量の焼夷弾により、耐えられないような熱気が人々を襲いました。

多くの方々が逃げ惑い、石灯篭で力尽きたといいます。

石灯篭

その石灯篭には先述の通り、そこで犠牲になった方の体液が染み込み、いくら掃除をしても取れなくなってしまいました。

反対側の石灯篭がそこまで黒ずんでいないのは、付近に避難所がなかったからなのです。

まとめ

私を含めまして戦争に関しては実感がわかない方が多くいらっしゃるかと存じますが、こうした戦争の遺跡を見て、自分の考えをお持ちになるのがいいかと思います。

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最後までお読みくださいましてありがとうございました。

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